京都メディアフォーラム例会記録(2004.7~2011.12)

京都メディアフォーラム例会記録

研修会講演「名物教授の名講義の時代は終った」

四日間続いた多様な研修会も終わり、一息ついた。振り返ってみると、やはり自分の取り組みがまだ十分消化し切れていないと感じられたが、同時に、それを改善するためのきっかけもつかめた。少しずつ紹介していきたい。


3月4日にはある私立大学で少人数の研修会に呼ばれてお話しする機会に恵まれた。研修会にはよく呼んでいただくのだが、たいていは、ある授業カリキュラムの設計や教授体制にフォーカスした話である。もちろん、こうした内容は、参加者がそれを前提に来られた場合には話がしやすい。ただ、今回のオファーは、各専門分野をお持ちの方が教育改善に乗り出すことについて話してほしい、ということなので、初年次教育や具体的な教育改善を前面に出すことはやめた。その代わり、近代社会における人文・社会科学の位置づけと大学の変容をリンクさせて、教育改善がどういう歴史的科学的に意味があるのかという方向から議論することにした。講演スライドは、ここにある。


近代社会は、資本主義経済の発展によって、自然科学が人文・社会科学を圧倒した。しかも自然科学は主として企業など大学外で発展した。大学内でしか存在できなかった人文・社会科学は、国家のエリート層(官僚)や専門的職業層(弁護士、文化人など)の養成を担うことになった。そこでの教育手法は、古典や専門文献のテクスト解釈が中心となった。

人文科学に何が起きたか―アメリカの経験 (高等教育シリーズ)

人文科学に何が起きたか―アメリカの経験 (高等教育シリーズ)


しかしながら、20世紀半ば以後、人文・社会科学は、これまでの伝統的な学問潮流に根本的な転換を求められた。つまり、国内的にはエリート層だけでなく勤労階層も大学への進学を始めてきた。世界的には、先進国だけでなく、発展途上国へも大学教育が広がった。このことは、大学教育自体の変容をもたらした。

つまり、従来の西欧中心主義的エリート主義的な価値観にもとづくテクスト解釈を批判する、構造主義ポスト構造主義ジェンダー研究、カルチュラルスタディース、ポストコロニアリズムなどの概念が次々と人文・社会科学の学問へと導入されてきたのである。これらは、大衆民主主義の浸透、通信技術の発達、相対主義的認識、マイノリティーの視点、第三世界の発展、ベトナム戦争、反植民地主義的動向を反映していた。その結果、大学での学問においては、多文化主義的、多元主義的、平等主義的な視点が広がることになった。


こうした学問傾向の変容は、当然ながらその学問を担う大学自体の変容をもたらすことになった。

  1. 学生層の変化(エリート→大衆化→ユニバーサル化)
  2. 大学研究者の位置づけの変化
  3. 研究者養成システムの変化

この中で特に、大学研究者は、以前のように大学のアカデミズムを代表するような知識の独占者ではなくなった。その代わり、学生や社会の中での共に学ぶ教育コーディネータとしての役割が重要になった。


日本の大学研究者が自らの専門的なスタイルを決定するのは、たいていは学部や修士課程ではなく、博士課程である。そこでの恩師やアカデミック・サークルの特徴を継承することになる。多くの場合、研究重視・教育軽視という特徴を継承する。


しかし、今日ではこうした伝統的な研究者スタイルを継承することはできない。むしろ、両者をどのように融合するのかを考えることが求められている。数十年前の大学研究者の時代には、名物教授が余談やエピソードを交えながら、高尚な授業を展開するのが好まれたし、マスメディアや社会もそれをもてはやした。その結果、名物教授を有することが大学の魅力となった。しかし、こうした牧歌的な名物教授がもてはやされた一方で、彼らを支える体制が極めて専制的で独善的なあったことを忘れてはならない。


今後は、むしろ名物教授の名講義は不要である。むしろ、名物教授であろうがなかろうが、専門分野、学科、学部などでの教授団が互いに教育・研究の中身を知り合い、学生や社会との接点をシステムとして支える体制が望ましい。たとえば、一人の学生の学びや将来について、教授団が相互に情報交換したり、学問的な啓発をおこなったりすることである。このようなシステムとしての柔軟さこそが、今後の大学において求められる。


では、システムとしての柔軟さをどのように具体化するのかについて、それぞれの大学において議論を深め、様々な実践がおこなわれる必要がある。それこそが大学研究者としてのライフスタイルを現実化するものである。