京都メディアフォーラム例会記録(2004.7~2011.12)

京都メディアフォーラム例会記録

30歳代には何をしていたのか?ー北日本新聞「越中讃歌」への寄稿ー

ytsutsui2009-08-12

前任地の話題はこれまで意識的に避けていたのだが、徐々にわだかまりが取れてきた。過去はいい思い出だけを大切に持ち続けたい。そう考え出してから、いろいろとつながりが出てくる。


昨年、久しぶりに寄ったついでに出会った人との思い出がその後も刻印を残している。そんなきっかけで、地元紙に寄稿することになった。二十年前のことなのでほとんど忘れていたが、断片をつなぎ合わせながら過去をつなげて見た。すると、現在と断絶しているどころか、現在とつながり、また未来へと広がってきた。そんな喜びを記事にしてみた。以下が概要である。

「懐かしい記憶」  
■挑戦続ける先進性
 昨年、八年ぶりに富山を訪れたが、それは、彼(か)の地での思い出と再会する場となった。その場とは、オーバード・ホール館長の杉田欣次さんが私財を投じて開館した「隠し文学館 花ざかりの森」のオープン記念式典だった。そこには懐かしい人がいっぱいいた。杉田さんのほかに伏木・光西寺住職である射水宗昭さん、写真家で五箇山・相倉の民宿オーナー池端滋さん、鱒のすしの「高芳」を営む多賀志郎さんたちだ。
 思い起こせば、富山赴任前に、私は、あることを心に決めていた。富山に行けば、おいしい食べ物やお酒があるに違いない。でも、素晴らしい人間と出会う以上に美味はない。富山ではそういう人を見つけよう、と。そして、事実、そうなったのだった。
 私が地域の人とよく活動していた1980年代半ばから90年代初めの出来事は、ウェブにはほとんど記録が残っていない。そこで、記憶を頼りに当時を振り返ってみる。1986年の赴任早々、大学と地域とのつながりを強めようと、地元の方を授業にお招きした。現在、京都の本山におられる浜黒崎・常楽寺住職の今小路覚真さんが最初のゲストだった。その後、射水さんにも来ていただいた。そうこうしているうちに、市内で展開するさまざまなイベントにかかわるようになっていった。
 この時期、富山駅前の有名な「真酒亭」が出した本「現代異人譚(たん) みゃあらくもん」の書評を本紙で書かせていただいた。当時、映画「少年時代」の撮影準備がおこなわれていたが、鯉淵優プロデューサーが真酒亭に偶然寄って、そこに貼(は)ってあった私の書評を見たそうだ。映画の子役探しでいろいろと相談に乗っていた時にそう語っていた。
 ■極めて斬新
 89年には「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」にかかわった。この美術展は、南アフリカの人種差別政策に抗議したアーティストたちがユネスコに作品を寄付して、それが世界中を巡回していたのである。私は富山実行委員会事務局長となった。努力の甲斐(かい)あって、わずか一週間の会期にもかかわらず、三千人もの参加者を記録した。
 この美術展のシンボルであった作品輸送トラック「ゆりあ・ぺむぺる号」が赤い大きなバルーンを掲げて停車している姿は大きく報道されたものだった。予想以上に集まったイベント収益を市民に還元しようと、映画上映や講演会などを次々と開催していった。90年には、在外研究の機会を得て、欧米数カ国を移動しながら研究していた。本紙で「ふだん着の米欧見聞録」という連載記事を担当し、市民視点のホットな海外情報を送っていた。
 翌年に帰国したが、その後の大きなイベントは、92年「エキスポとやま博」(JET)のFMピーチであった。エキスポ会場内のどこからでも見える仮設スタジオを「見えるラジオ」と呼んだ。そして、その企画コンセプトが当時としては極めて斬新だった。ラジオは聞くもの、という当時の常識を破って、市民がどんどんラジオに出演したのである。これは、今から考えると、その後の市民メディアのさきがけであったといえる。
 この年、本紙の紙面批評を一年間担当させていただいたのだが、それ以後、私は、本務に忙殺されることになる。やがて地域との関係も薄れ、2001年の京都転勤によって、ますます疎遠になってしまった。もちろん、93年、富山大学に言語表現科目を新設して本紙の編集委員や他のメディア関係者と一緒に授業を作ったことは、その後、全国のモデルとなったのであるが、これとて本務の一環であった。
 ■富山にルーツ
 ところが昨年、「花ざかりの森」の式典でかつての知り合いと出会って、過去と現在とが一気につながった。
 私は、現在、スーダン難民問題を扱ったオランダ映画Sing for Darfur」の試写会を京都の十大学で開催したり、京都三条ラジオカフェというNPO放送局でラジオ番組を作っている。「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」のプロデューサーであった北川フラムさんは、数年前から本学客員教授となった。彼は、富山の参加者の多さに驚いていたのだった。
 これら現在のいずれもが二十年近く前の富山にルーツがあったのである。富山は決して伝統だけに生きているのではなく、先進性をも兼ね備えている。それに気づかせてくれたのが、多くのイベントをリードしてきた射水さんと話している時であった。ところが、残念なことに、昨年、彼は早すぎる死を迎えた。この時には、彼を慕う多くの友人が集まったという。
 友人たちはその後も挑戦を続けている。けれども、その挑戦の成否は次の世代へと橋渡しされるかどうかである。まだまだ休むわけにはいかない。今度は、未来への夢の架け橋を作りましょう。また、相談に行きます!